カテゴリー別アーカイブ: 間人(はしうど)皇后

間人(はしうど)皇后と聖徳太子と楽しむ約800発の打ち上げ花火。2016年【間人みなと祭り】追記/間人温泉 炭平旅館のある港町・たいざの夏の風物詩

今年の間人みなと祭りは珍しく打ち上げ直前まで小雨がチラつき

関係者一同を大変ヤキモキさせましたが

血気盛んな晴れ男・晴れ女が沢山いそうな間人の町のおかげか

ちょうど打ち上げ時刻の20:30には小雨もやみ

無事に開催となりました

 

今回ワタクシめはこの祭りの花火を撮るのもはや3年目

個人的には一番きれいに撮れると思っている

大成古墳群という高台から景勝地の立岩を眺めつつ毎年花火を撮っていたのですが

http://www.sumihei.com/topics/?p=20457

流石に3年目ともなるとちょっと飽きがきまして…

 

今年は密かに2点の変更とチャレンジを計画しておりました

間人の町のシンボル間人皇后と聖徳太子像と打ち上げ花火のアングルを撮るために

①撮影場所の変更

②望遠レンズを使ったちょっと変わった花火写真の撮影

結論から言いますと②に関しては大惨敗でした

 

間人皇后と聖徳太子像は小山の頂上にあるのですが

カメラの三脚を立てたのがその中腹あたり

 

打ち上げ花火がはじまった直後

おむすびころりんみたく

暗闇の藪の中に転げ落ちていった望遠レンズ

撮影中断して何度か探しておりましたが

真っ暗で探し出せるわけもなく

あとの撮影は行方不明の望遠レンズの行方が頭をチラつくワタクシの豆腐メンタルとの闘いでした

撮りなおしたい感が半端ないですが

1人の男が葛藤の最中撮った今年の間人みなと祭りの模様良かったらお楽しみください

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冬・凛とした空気に風情が増す丹後半島・間人百景/寒くなるとカニが美味しいと思う不思議

年始の寒波到来により積雪があったので間人の町のシンボル間人皇后・聖徳太子像のある立岩に

似たようなことを考える人もいるようで

雪をかぶった像の付近には先客のタイヤ跡と足跡が

立岩で海風が遮られて寒くないかなと思っていましたがまったくそんな事はありませんでした

ただ、冬の凛とした空気の中美しさの増す風景はすごく良いです

外にお出かけの際は厚着の服装でお出かけ下さい

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静御前~丹後七姫伝説とは

悲劇の英雄、源義経の愛妾「静御前」は網野町で生誕しました。

網野町には静御前を祀っているのが静神社があります。

静御前は磯に生を享け、父は磯野善次、「磯の衆」と呼ばれた海士の一族です。
七歳で父を失い母とともに都へ上りました。母は白拍子として有名になり、静も都で白拍子へと成長しました。やがて義経に見初められ、愛妾となりますが義経はその後、頼朝に追われる身となり離れ離れになります。

その後、疲れ果てた心身を休めるため、生まれ故郷の磯へと帰ってきました。

静神社から遊歩道でいく能舞台風の展望台から、

見渡す磯の風景は美しく切なく情緒深い絶景です。

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間人皇后伝説~丹後七姫伝説とは

 

古くからの言い伝えを集めた明治時代末の文献「間人村濫觴記録(たいざむららんしょうきろく)」によると、西暦587年、奈良・飛鳥から間人皇后(はしうどこうごう)が、この地を訪れたとしています。

間人皇后は、推古天皇を支えながら世を治めることになる聖徳太子の生母です。

皇后は6世紀に入り、蘇我氏と物部氏の、「仏教」を認めるか否かの争乱から逃れるため、領地であったこの地に7人の家来とともに訪れ、その身を置きました。

その家来の名は

穂見中江麿(ほみのなかえまろ)⇒中江
東漢直駒(やまとあやのあたいこま)⇒東
木目見宿禰(こめみのすくね)⇒相見
蒲田麿興世(かばたまろおきよ)⇒蒲田
小坂部民谷(おさかべのたみや)⇒小谷・谷
下戸部大連(しもとべのおおむらじ)⇒下戸
中臣村主忠世(なかとみのすぐりただよ)⇒中村

間人はこの名前の人ばかり、炭平は中江になります。

間人には、皇后が飛鳥からの遠い旅路で疲れた御足を清めたと伝えられている「足洗いの池」や、住んでいた場所と伝えられている「御所の壺」などが、今も残っています。

飛鳥に帰ることになった間人皇后は村人へ感謝の気持ちを込めて、自らの名前「間人」(はしうど)をこの地に贈りました。しかし、皇后の名前を、地名として使う事を畏れ多いと感じた人々は、代わりに、この場所から皇后が退いた事にちなんで、「たいざ」と呼ぶようになったと云われています。

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[間人]のいわれ

IMG_0407聖徳太子のお母様「間人(はしうど)皇后」が、奈良の都で戦が始まり、難を逃れるために、当時「大浜の里」と呼ばれていた当地に来られ、数年間過ごされました。奈良の都での戦も治まり、帰られる時、お礼に皇后のお名前をこの土地の名前として使うことを許されたが、高貴の方のお名前をそのまま使うのは恐れ多いと感じ「間人皇后」が退座された・・・文字だけ頂き、呼び名をタイザとしたことが、地名の由来です。この時、地域に貢献するために7名の家来を残して、都に帰られました。